清美川梅之 - 大相撲からプロレスへ転身した昭和の放浪レスラーの全生涯
Matthew Martinez
Published Aug 13, 2026
「さすらいの一匹狼」。そう呼ばれた男がいた。秋田の農村から土俵に上がり、横綱・双葉山を倒し、そしてプロレスのリングへ。世界五大陸を渡り歩いた清美川梅之(きよみがわ うめゆき)というプロレスラーの名を、今の若い世代はほとんど知らないだろう。だが、昭和のプロレス史を語るうえで、この男の足跡を外すことはできない。
清美川梅之とは - 基本プロフィール
清美川梅之(1917年1月5日 - 1980年10月13日)は、秋田県平鹿郡十文字町(現在の横手市)出身で伊勢ヶ濱部屋所属の元大相撲力士、旧全日本プロレス所属の元プロレスラーだ。大相撲時代の身長は182cm、体重94kg。得意手は左四つ、上手投げ、外掛け。最高位は東前頭筆頭。
リングネームは「清美川梅之」「清美川トーゴー・シクマ」「トーゴー・タニ」など複数持ち、ニックネームは「さすらいの一匹狼」だった。身長は182cmから185cm、体重は94kgから100kgの間で記録されている。本名は佐藤梅之助。大相撲廃業後に入婿の形で結婚し、大橋梅之助という名になったが、後に離婚して佐藤姓に戻っている。
秋田から土俵へ - 大相撲入門と急成長
高等小学校を出たときには、すでに六尺(約180cm)、二十三貫(約86kg)という恵まれた体格を持っていた。16歳で伊勢ヶ浜部屋に入門し、1934年1月場所で初土俵を踏む。最初の四股名は薩摩川だった。伊勢ヶ浜部屋では、後の横綱・照國や後の関脇・備州山より先輩という立場だった。
同郷の力士に憧れてリングに飛び込んだ少年は、みるみる頭角を現していく。才能は早くも注目を集め、1938年には十両へ昇進、1940年には新入幕を果たした。入門からわずか6年で幕内の舞台に立つ。その速度は決して遅くない。
双葉山撃破と優勝旗手 - 輝かしい土俵の記憶
清美川梅之の相撲人生で最も語り継がれるシーンといえば、やはりあの瞬間だろう。1942年5月場所、12日目に横綱・双葉山を外掛けで倒し、金星を挙げた。双葉山といえば69連勝という空前絶後の記録を持つ「昭和の大横綱」。その怪物を、清美川は自慢の外掛けで仕留めた。会場が沸いたことは想像に難くない。
翌1943年5月場所には11勝4敗という成績で優勝旗手の栄誉に輝いた。優勝力士の隣で旗を持って土俵を回る優勝旗手は、場所を代表する好成績力士に与えられる名誉だ。この頃の清美川は「美男力士」とも称され、土俵内外でファンを惹きつける存在でもあった。通算成績は147勝139敗1分1預11休、勝率.514。派手な優勝こそなかったが、長く幕内上位で戦い続けた地力は本物だった。
引退後の紆余曲折 - 製材所から相撲コーチへ
土俵を去ったのは1946年のこと。家業を継ぐためという理由だったが、その後の道は平坦ではなかった。料亭を継いでいた清美川だったが、東京から秋田県大曲市(現在の大仙市)に移り、相撲協会からの退職金を元手に製材所を開業した。一時は従業員を雇うほどに成長したが、経営が傾き閉鎖している。
製材所を閉めた後は、大谷重工業の相撲部コーチとなる。この大谷重工業は、後にホテルニューオータニの創業者として知られる大谷米太郎氏が社長を務めていた企業だった。当時の清美川にとって、ここでの経験がプロレスへの転機につながっていく。
プロレス転向 - 新たな格闘技の世界へ
清美川は1953年にプロレスに転向し、山口利夫と共に旧全日本プロレスを設立した。1954年には日本プロレスの旗揚げシリーズにも参加し、その後国際プロレスへ移籍するなど、プロレス界でも一時代を築いた。
大相撲出身者がプロレスのリングに立つこと自体、当時は珍しくはなかった。力道山しかり、木村政彦しかり。だが清美川梅之の場合、その後のキャリアは国内に留まらなかった点が際立っている。全日本プロレス協会の消滅後は、活躍の場を海外に求めた。日本での活躍は1970年と1973年に国際プロレスに凱旋したのみで、日本人レスラーとしては極端に国内での活躍が少ない人物だった。
世界を渡り歩く「さすらい」のリングキャリア
彼はキャリアの中でメキシコ、南米、アフリカ、ヨーロッパを転戦し、日本人レスラーの名を世界に広め続けた。アメリカのNWAトライステート地区では「トーゴー・シクマ」というリングネームで活動し、1967年にはシャチ横内と共にUSタッグ王座を獲得した。
タイトル獲得はそれだけではない。1956年5月15日には木村政彦とのコンビでラウル・ロメロとヤキ・ローチャを破り、中南米タッグ王座を獲得した。木村政彦といえば「木村は神様、力道山は仏様」と言わしめた柔道・プロレス界の怪物だ。その木村と組んでのタイトル奪取は、清美川の実力が本物だった証左といえる。
海外でのリングネーム「トーゴー・シクマ」というカタカナ混じりの異名が象徴するように、清美川は異国の地でも自分のスタイルを貫いた。試合数は膨大だが、国内での記録が少ないため、その全貌は今なお解明されていない部分も多い。昭和プロレス史の「謎の人物」として語られる所以がここにある。
技とスタイル - クロス・チョップが生んだ系譜
清美川梅之のプロレスラーとしての技術的な遺産は、一つの技に象徴される。彼の必殺技クロス・チョップは、弟子のシャチ横内へ、さらに上田馬之助へと受け継がれた。技が師から弟子へ、そまたその弟子へと連鎖して伝わっていく様子は、格闘技における「系譜」の美しさそのものだ。シャチ横内も上田馬之助も昭和プロレスを代表する選手であり、清美川の技術的影響力がいかに大きかったかがわかる。
大相撲時代の得意技だった外掛けや上手投げで培った「相手の体を制御するセンス」は、プロレスのリングでも活かされたはずだ。相撲出身者特有の重心の低さと体の使い方は、海外の大型選手相手にも有効だったと考えられる。
猪木対小林戦のレフェリー - 歴史的一夜の立会人
現役を離れた後も、清美川梅之はプロレス界と深く関わり続けた。その最も印象的な場面が、1974年に訪れる。「昭和の巌流島」と呼ばれたアントニオ猪木対ストロング小林戦(1974年3月19日、蔵前国技館で行われたNWF世界ヘビー級選手権試合)のレフェリーを務めた。
この一戦は日本プロレス史上屈指の名勝負として今でも語り継がれる。新日本プロレスと国際プロレス、二つの団体のエースが激突した「夢の対決」。その重要な試合を裁く立場に清美川がいたという事実は、彼のプロレス界における信頼と権威を物語っている。清美川という名を記憶している人の多くが、このレフェリーとしての姿がきっかけというケースも少なくない。
女子プロレスの育成にも尽力
1970年に日本に帰国した清美川は国際プロレスで活躍する一方、欧州プロレスとの連携にも力を注いだ。さらにレフェリーへの転身と並行して、全日本女子プロレスでコーチを務め、多くの選手を指導した。
知られていないが、清美川はジャッキー佐藤(ビューティ・ペア)のコーチをしていた時期があった。ビューティ・ペアといえば1970年代に社会現象にまでなった女子プロレスの象徴的ユニットだ。その選手を直接指導した事実は、清美川の指導者としての側面を改めて照らし出す。レスラーとして、レフェリーとして、コーチとして、清美川は複数の顔を持っていた。
悲劇の影 - プロレスラーの孤独な背中
栄光の裏に、どれほどの痛みがあったか。清美川は離婚して家族と別居していたが、プロレスラーとして長期海外転戦中の1957年4月2日、元妻に引き取られていた当時12歳の長男が誘拐・殺害されるという事件が起きた。
海外のリングで汗を流しながら、祖国でそのような知らせを受け取った清美川の心中は想像を絶する。「さすらいの一匹狼」という異名は、華やかなキャッチコピーのように聞こえるが、実は孤独と放浪を余儀なくされた人生そのものを映した言葉だったのかもしれない。
晩年と死 - 63年の生涯が幕を閉じる
清美川梅之は1980年、静岡県で脳卒中により63歳で世を去った。大相撲の土俵から始まり、世界五大陸のプロレスリングを渡り歩き、最後はレフェリーとしてコーチとして後進を育てた。その足跡は膨大だ。しかし残された記録は断片的で、謎も多い。
昭和プロレスを研究するファンや識者の間でも、清美川梅之については「資料が少ない」と繰り返し言及される。それがかえって、この人物への関心を高め続けている。
清美川梅之が残したもの - 昭和格闘技史への貢献
清美川梅之というプロレスラーを一言で表すなら、「二つの格闘技を生きた男」だろう。大相撲で東前頭筆頭まで上り詰め、双葉山という神話的存在から金星を奪い取った。そしてプロレスへ転じ、国内の枠に収まらず世界を股にかけた。
彼の弟子たちはクロス・チョップを受け継ぎ、次の世代へ渡した。レフェリーとして裁いた猪木対小林戦は「昭和の名勝負」として永遠に語り継がれる。コーチとして育てた選手たちはそれぞれの舞台で輝いた。清美川が直接残した「目に見える記録」は少ないが、彼が与えた影響は幾重にも重なり、今のプロレス界にまで届いている。
秋田の農村で生まれた少年が、世界のリングで「トーゴー・シクマ」として戦った。その事実だけでも、清美川梅之 プロレスラーとしての評価には十分すぎる重みがある。昭和スポーツ史の片隅に埋もれたこの人物の生涯は、もっと多くの人に知られるべきだと思う。